宮城県社会福祉協議会
震災復興支援室
主幹 北川 進
〇宮城県の生活支援相談員のいま
宮城県では、最大約22,000戸あった応急仮設住宅(プレハブ型)も平成30年12月末現在では約260入居世帯まで減少し、既に生活支援相談員の配置が終了した市町も増えてきました。また、市町の中には生活支援相談員の職名を変え、引き続き災害公営住宅等への支援業務を担っているところもあります。今、私たちの取り組みも、ひとつの区切りを迎えようとしているのかもしれません。生活支援相談員の職を離れた方々の中には、経験を活かし福祉系の職に就いたり民生児童委員やボランティアとして活躍していたりと、多くの方々が、被災された方々を支える業務を通して得た「思い」を胸に新たな道を歩んでいます。
〇生活支援相談員の役割と足跡
これまで、孤独死や自死など残念ながら最悪の事態に遭遇することもありましたが、訪問や巡回、サロンなどの場において見守ってきたことで「セーフティーネット機能」を果たしたことは言うまでもありません。訪問時に異変に気付き、命をつなぎとめたことも多々ありました。住民から寄せられた「生活支援相談員さんがいてくれて安心だった」「災害公営住宅に移ってからも必要」といった声は、まさに生活支援相談員が担ってきたことへの評価であり、住民から信頼を得て受け入れられた証です。一方で、生活支援相談員が定期的に訪問し様子をうかがい、傍らで悩みや不安を聴きとめる役割を担い続けることが、果たして本来の地域の姿なのかと言えばそうではありません。被災によって受けた大きなダメージを背負いながら、近隣同士の関係性が薄い仮設住宅等へ入居した方々は、孤立や自死などの事態につながる可能性が高いことが、過去の大災害後の事例からも明らかであり、それらの状況を招かないよう、特別な体制を組んだのが生活支援相談員であったはずです。そのことを踏まえて生活支援相談員としての姿、役割を考えなくてはならなかった点は反省点であるとも言えます。
〇災害公営住宅に転居された方々から聞かれた「仮設のころは楽しかった」の声
昨年、ある地区で大変残念なことが起こりました。応急仮設住宅から災害公営住宅に転居され3年ほど経った方が、取り壊され始めた、以前住んでいた応急仮設住宅の集会所前で首を吊って自死されました。応急仮設住宅入居時からボランティアとしての近隣住民への声掛け活動を担い、災害公営住宅転居後もその活動を続けるなど生活支援相談員との関わりも深くいわゆる自立した、お元気であると捉えていた方でした。災害公営住宅入居後に母を亡くし、子が一人暮らしをすることになり独居生活になったことで精神的に不安定になり、その経過の中で生活支援相談員も心のケアに携わる専門機関も訪問し関わりを持ちましたが自死という結末を迎えてしまいました。生活支援相談員との会話の中で「仮設のころは楽しかった」「取り壊されている仮設を見とどけたい」と言っていたそうです。同様の「仮設のころは良かった」といった声を、これまで応急仮設住宅から転居された多くの方々からも聴いてきました。
この出来事が生活支援相談員の怠慢や不適切な対応があったからだとは思いません。しかし、災害公営住宅の今と応急仮設住宅での生活とで何が違い、なぜ当時が「楽しかった」と思え今はそうではなかったのか、更には、一人一人が充実した生活を送るために必要なことは何だったのかを考えなくてはなりません。独居生活に至るなど様々な背景があったことも要因であることはもちろんですが、その方が発した「仮設のころは楽しかった」という言葉の思いや背景を、福祉に携わる私たちはどう捉えるべきか、災害後の支援のあり方として深く考えさえられる出来事だったと思えます。
〇住民の主体性を引き出して
訪問や巡回によりセーフティーネット機能を担いながら、住民同士の関係性の構築や引きこもりなどを防ぐための場づくりなど、いわゆるコミュニティ構築の支援も行ってきました。支援されることに慣れてしまった住民も多かった中、いかにお茶会やサロンを参加する住民同士で運営してもらえるか働きかけたり、日常の生活の中で、同じ応急仮設住宅の住民がお互いに声を掛け合うことができるよう交流の機会を作ったりと、地道に取組みを重ねてきました。応急仮設住宅では、団地会や世話人会などの自治会形成への支援を行ってきました。市町によっては、自治会の役員会や運営のサポートにまで関わりをもったところもありましたが、供与期間の限られた「仮設」住宅団地でのコミュニティ形成の支援に対し当初、消極的な声もありました。生活支援相談員は訪問や巡回で個別の状況を把握する役割だ、という見方も強く、住民同士の支え合いの促進やその支援に対して線引きされる雰囲気もあったと思います。まして、住民同士の支え合いの形が自治会であると実感され、理解できるまでには更に時間が必要だったこともありました。
ある住民の方が「仮設の時にお世話になりっぱなしだったから、今度は私が出来ることをやらせてもらいたい」と災害公営住宅自治会設立の話し合いでおっしゃっていたことが強く印象に残っています。応急仮設住宅は期間限定の仮の住まいであることは事実ですが、応急仮設住宅の「自治会」という支え合いの形を見ていた(感じていた)方々がいらっしゃり、次なる転居先で「今度は私が」との思いに至っていただけたことは、生活支援相談員が自治会形成への支援に携わった成果であり、そのことを私たち自身がもっと認識すべきではないでしょうか。
応急仮設住宅に住んでいた住民、生活支援相談員の訪問活動を見続け、「本当は私たちがやるべき役割ですよね」と転居した災害公営住宅での見守り活動が発足したり、支え合い活動のグループ立ち上げの相談が来たりと、住民の発意による前向きな動きも多くみられています。民生委員を支えたいと地域の独居高齢者宅を訪問する見守り活動グループもできました。
他人に無関心、地域のために協力しようとする人たちが少ない、などといった声がささやかれる昨今ですが、必ずしも人を支えたいと前向きな思いを持った人がいなくなったのではないと思います。生活支援相談員の活動を通して、住民の方々の心の奥底に眠った人を支えることや役に立ちたいと思う気持ちをどう引き出せるか、そのために、どのような関わりや姿(モデル)が必要なのかが見えた気がします。これこそが様々な苦労と苦悩を抱えながら生活支援相談員の役割を担った被災地域の成果と言えるのではないでしょうか。
〇今後の活動について
私たちが目指す究極の地域は、生活支援相談員がいなくても助け合って暮らしていける地域なのだと思います。そのために、一人一人が生きがいを持ち困難に立ち向かっていけること、困難を抱えながらも周囲の力を借りて助け合っていけることだと思います。この写真は、ある応急仮設団地で開かれていたお茶会で、その日、顔を出さなかった住民を心配して、同じ仮設団地に住む住民が様子をうかがいに行っている場面です。この姿から、私たちが目指す人と人との関係、支え合う地域の姿が見えるのではないでしょうか。
被災後の混乱の中で、複雑かつ困難な状況を抱えた被災者の方々を支える難しい役割を担った生活支援相談員は、非常に貴重な経験を積ませていただきました。この経験をもとに社会福祉士を取得した方、生活支援コーディネーターになった方、民生児童委員に率先してなった方、自身が住まう地区でボランティアによる見守り活動を始めた方…この役割の尊さを感じた方々が既に次なる一歩を踏み出しています。この経験に基づく力こそが被災地の力です。この力をこれからの地域に活かしていくことが今後の姿だと考えます。
「宮城県では、生活支援相談員や地域生活支援員、訪問支援員など市町それぞれの判断により様々な職名がありましたが、ここでは『生活支援相談員』として呼称させていただきます。」
震災復興・地域福祉部
震災復興支援室 主幹 北川 進さん