忘れようにも忘れられないあの日から、もうすぐ1年になる。
大きな被害を受けられた方々のことを思ったら、会津の私が、「怖かった」などと言ってはいられないが、それでもやはり怖かった。
強大な地震の前には、車椅子のブレーキなど何の役にも立たない。車椅子は右に左に勝手に走り、柱にぶつかって半回転し、硝子戸に突っ込み、階段に衝突して止まった。
私の悲鳴に、たまたま水道工事に来ていた若い男性が走ってきて、私は思わず彼にしがみついた。
男の人に抱きつくなど、生まれて初めてのことだった。
抱きついたまま長い余震に耐えた。
前後6分の激しい揺れ!
その後も余震は続き、更に報じられた巨大津波の映像に息を呑んだ。
何もかもが流されてゆく。
人も車も家も木立も…。
避難所は着の身着のままの人で溢れ、歩く余地さえないほどに見えた。
しかし、そのときはまだ、原発の事故が更に追い打ちをかけることなど、想像もしていなかった。
その夜は、さすがに心細かった。
あちこちに出来た青あざを見つめていると、一人であることの痛みが傷にもまして痛んだ。
メールが入った。
携帯の青い光りに飛びつくと、メールの主は講談社の元編集者で、私の本を何冊か担当してくれた女性だった。
電話は通じない。
それでも誰かに繋がっていると思えることが、こんなにも心強く思われたことはない。
彼女は余震のたびに安否を気遣い、メールの向こうで、一緒に眠らずにいてくれた。
人の優しさは、人の心を動かす。
私は不意に我に返ったように、海の近くに住む知人友人のことが気になりだした。
電話は何度かけても通じない。
胸騒ぎがする。
特に、車椅子の友人たちはどうしているか。
避難所でトイレは大丈夫だろうか。
介助は頼めるか。
飲まず食わずを耐えることは出来ても、排泄には限界がある。
恥ずかしいとか、情けないとか言ってはいられない事態だが、考えるだけで、人ごとならず涙がこぼれてくる。
頑張れ!
今回のことで、人生を大きく狂わされた人々の悲しさは、言語を絶するものであると思う。
現実を受け入れられずに、今も尚、苦しみ続けておられる方も多いだろう。
私も22歳のときに、一瞬にして人生を断ち切られた者として、とても人ごととは思われない。
それでも、時は流れ、いつしか時は私を強め、生きる力を与えてくれたように思う。
終わりは、全ての始まりである。
明日を信じて、人生の冬を乗り切ろう。
必ず春は来るはずだから…。
福島の春を、私は心から祈っている。
エッセイスト 大石 邦子
[プロフィール] 大石 邦子(おおいし くにこ)
会津本郷町(現・会津美里町)生まれ。22歳のときに交通事故に遭い半身麻痺となる。12年余りの療養生活を経て自宅に戻る。以来、車いす生活を続けながら執筆・講演活動を行っている。著書に「この生命ある限り」「この愛なくば」「この胸に光は消えず」などがある。